箸袋趣味の部屋

箸袋の歴史

箸の歴史は、箸の製造会社や研究されている方の書籍で多少は紹介されているが、箸袋となるとほとんどない。 箸の歴史の添え物程度の内容が掲載されているのみである。 25年前に趣味の会に入会した時から歴史に興味はあったが本格的に研究しようとは思わなかったし、 手がかりもなかった。 最初の箸袋が平安時代に宮中で端布で大事な箸を包んだというのが始まりらしいと聞くと、 正倉院御物の中にでもない限り実際の箸袋が残っているとは思えなかったし、布があっても証明することは難しい。 更に研究対象にするには成果やその後の展開を考えてしまうと、労力の割に合わないと思われ、研究者もいないことになる。
そこで、研究ではないが現存する文章・絵・版画などから暮らしぶりがわかるものを、最近情報収集し始めたので、 それも紹介してゆきたいと思う。素人なので勝手な解釈をお許し願って箸休めにしていただきたい。

ちなみに箸袋の名称は、箸箱・箸鞘・箸布・箸紙・箸巻・箸筒等々が含まれ、蒐集家の間では、 「箸袋」で統一されているように思うが、一目で違う名称のほうが相応しいものもある。総称で、 「おもてなし」する気持ちを箸に含ませていると解釈してほしい。

なお、ここに掲載した絵は、ほとんどがネット上に公開されている絵の一部を掲載している。 本の写真を拝借しているものもある。出所・出典・引用は記載しているが、不適当と思われる、あるいは掲載自体を取りやめたいという場合にはご連絡ください。 今は整理せずに、関係ありそうな文献や図版をピックアップしているだけなので年代を追って纏めてみたいと考えています。


ご連絡は、メールでお願いします。 harada3119@yahoo.co.jp
箸袋・箸の記述・版画・遺跡出土品など
  箸袋の歴史(以下7段階を、箸袋趣味の会会員として紹介している。)
「知ってるようで知らない箸袋」企画展:「箸袋趣味の会」主催
場所:フェルケール博物館(旧清水港湾博物館:静岡市清水区)
開催期間:2009年1月17日~2月15日
年表の引用:ブログ:「一病息災日本酒が旨い」より転載
   
1:7世紀(飛鳥時代)中国大陸から箸が伝わる。        
2:11世紀(平安時代)「箸袋の始まり」   この頃、宮中の女官たちが、自分の着物の端布で箸を入れるための袋を作ったという。    
3:14~15世紀(室町時代)   料亭などで、祝いの膳に箸を紙で包んでだすようになったという。    
4:17~18世紀(江戸時代前期)「上流階級への箸袋定着」   「茶屋献立指南」1696年の「八月二十六日御成立正献立」に、箸袋に入れられた箸が描かれる。 「御成」とは、家臣が将軍をもてなす饗宴のこと。 また、江戸の吉原において、なじみの客の箸を入れるために、客の名・定紋などを入れた箸袋を用いる。    
5:19世紀(江戸時代後期)「庶民への普及」   各種料理本に「箸袋=箸紙」の名が見え、庶民に普及する。また、正月の祝い膳の習慣が定着し、 その際使用される箸は奉書に包まれ、水引をかけて祝いの膳に載せられた。    
6:19世紀後半(明治時代)「現在の箸袋へ」   山陽鉄道開通の際、折詰に入った駅弁の販売を開始。その際、弁当に添えた箸を紙で包む(1889年)    
7:1960~現在   「箸袋趣味の会」発足(1964年)
機械により、箸袋が大量に生産される。
コンビニなどで、ビニール包装が普及。マイ箸が流行。
   
   
 一方、種々の記述資料から新たな論文も有り、文献・遺跡出土品など加えて歴史を見直し紐解く。      
 文献・文章   文言・文書     
中国に見られる箸の文献       
 礼記・曲禮・第一箸の出現 飯黍毋以箸
:黍(きび)を食べるのに箸を使ってはいけない
(→手で摘まんで食べなさいと言うこと)
   
礼記・曲禮・第一梜の出現 羹之有菜者用梜、其無菜者不用梜
:羹(肉の煮込み)は野菜の入ったものは箸で食べ、野菜の入らないものは箸を使わない。
梜は䇲とも書き、”きょう”と読み「食べ物をはさみとる箸」であるから一本箸つまりピンセット状の竹箸と推察される。
   
魏志倭人伝/42行
中国の歴史書『三国志』魏書・第30巻・烏丸鮮卑東夷伝倭人条
 西晋の陳寿3C末(280年~297年)に書かれた。
   食飲用邊豆手食」
食飲は高坏を用いて手づかみで食べた
   
日本で文献に散見される記述      
 箸の起源について
いつ日本に伝えられたかは定かではなく、先に紹介したように箸関連のHPに掲載されているので割愛し、 最近読んだ論文『わが国における食事用の二本箸の起源と割箸について』向井由紀子、橋本慶子、長谷川千鶴 ,1977,調理科学、から紹介したい。以下論文の引用「 わが国で最も古いと思われる箸は、7世紀後半の板葺宮跡出土品と藤原宮跡出土品にみられ、 さらに時代は下るが、平城宮跡、伊場遺跡にも箸と思われる出土品がみられる。以上のことから箸の起源をみると、 弥生式文化の遺跡からは箸状の出土品が現在までのところみられないこと、 紀元3世紀頃の日本のことを書いたとみられる魏志倭人伝には当時一部に手食がみられたかもしれないことが記載されていること 7世紀後半の遺跡である板葺宮や藤原宮出土品には箸状の出土品がみられること須佐之男命と箸の話のある古事記は7世紀頃編纂されたこと 「箸向う……」の枕詞のみられる万葉集は5~8世紀頃の作品を編集したものであることなどから考えると、 二本箸が日本人の食生活の中で日常化していったのはおそら3~5世紀の間であろうと著者は推察する。」
    『日本書紀』崇神天皇10年9月(3世紀から4世紀初めにかけて実在したという)の条に、 つぎのような説話が載せられている。 一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。「ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。 「則ち箸に陰を憧きて薨りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。」 (所々現代語)箸墓古墳の写真とも、ウィキペディアより引用転載

箸を剣のように使い自害したことから、女子供の武器とされたことが、粉河寺縁起に見られる小太刀と箸・箸鞘に転嫁されていったと 管理人は飛躍して妄想している。
   
遺跡からの出土品    板葺宮跡、藤原宮跡、平城宮跡、伊場遺跡など    
正倉院御物(756年に始まる)で唯一現存する箸
   長さ25.8cmの銀製箸で丸い棒状に鎚で打ち延ばされ、鍍金を施している。小さく目立たない程の鎚目で丁寧な仕上げがされている。両端が細い緩い利休箸の形状    
 古事記(日本最古の歴史書):712年に編纂    出雲國の肥の河上、名は鳥髪に降りたまひき、この時箸その河より流れ下りき、ここに須佐之男命、人その河上にあると以為ほして・・・
→金属では流れ難いし、木製の二本棒では判別し難いので、竹の一本箸(ピンセット状の折箸)だと考えるのが自然か。
   
 万葉集(奈良時代末期に成立した日本の和歌集)7C前半から759年まで
/第9巻1804番
   「父母賀 成乃任尓 箸向 弟乃命者 朝露乃 銷易杵壽 神之共 荒競不勝而 」
→父母が同じという縁で2ほんの箸のようにいつも一緒だった弟は、朝露の様にはかない命で神様が定めた寿命には勝てませんでした。
   
宇津保物語(平安時代中期に成立)983年
源氏物語・枕草子に影響
  「 春宮にさぶらひ給がもとより・・・小さき志ろがねの箸あまたすへて奉り給へり」
→銀箸
   
延喜式(平安中期:905年~927年)5巻:91条:【名簿】   「兆竹折箸事祓清供奉。」
→竹製の折箸(ピンセット状)と推察される→祭祀用か?
   
 延喜式(平安中期:905年~927年)6巻:17条:【雑器(九)】   「銀飯鋺一合。銀箸三具。銀盞一合。銀匕二柄。銀箸臺二口。」→銀箸と銀匙と箸の置台→祭祀用か    
 延喜式(平安中期:905年~927年)6巻:19条:【人給料】    「白銅箸四具。」
→白銅箸(しろがね箸)
   
 枕草子(10C末~11C初)/187段 心にくきもの    「箸、匙などとりまぜて鳴りたる、をかし。」
→箸と匙は金属製であったと推察する
   
 以下は原本・原典を未読 で孫引きの情報    
観世音寺資材帳(延喜5(905)年)   銅箸・鉄箸→おそらく火箸だろう    
山槐記(1190年)   柳箸    
拾遺和歌集(996年)   松箸    
日本霊異記(822年頃成立)        
群書類従(1779年~18c末までの史書・文学作品)        
類聚雑要抄(1146年頃)        
江家次第(~1111年)        
日本西教史(1879年)        
         
         
 絵巻物・版画での箸    
粉河寺縁起絵巻(国宝)
勝田春子氏によれば、「中国から伝わり弥生時代に神を祭る祭祀用として折箸が使われ、 聖徳太子が中国の食事法を取入れ、官吏から一般庶民に広まり、7~8世紀頃、箸食の定着化が見られた。」という。その中で平安時代に貴族が箸を使い絵巻物に描かれていることからも、暮らしぶりが伺える。国宝で、学者・研究者でもないので実物をみて確認することは叶わない。あくまでも推測の域をでていないが箸だと未確認ながら掲載した。
上記の粉河寺の話のもとネタになっていると思われる。
勝田春子『食文化における箸についての一考察:わが国における箸文化の変遷(第1報)(弥生時代~鎌倉時代)』1989、を引用した。
     
 錦絵の中の箸
広重や豊国の版画にみられる宴会風景にはしばしば箸が登場している。本物の絵を手に取って子細に調査できれば、 箸袋らしきものがあるかは認識できるかもしれない。箸と煙管の区別すらネット図版では判別しかねる。
出典:広重京都名所之内四条河原夕涼み(部分)
   出典:豊国三代四条河原(部分)    
 以下7枚の写真・文章は、『錦絵が語る江戸の食』松下幸子、遊子館、2009、 の孫引きと出典からの転載である。     
 
《夕すずみ》三代歌川豊国、国会図書館蔵
i『守貞謾稿』によると夏は血水底に溜まる故に、江戸にては、葦簀あるいは、硝子簾を敷きて、その上に刺身を盛る」 とあるので一般的な盛り方なのでしょうが、 箸の先は箸置きだろうか、記述はない。
   
江戸卓袱料理『料理通』初編:文政5(1822)年挿絵、東京都立図書館蔵、八百屋善四郎著 和泉屋市兵衛等
この絵の普茶料理で卓の真ん中に箸立て(箸筒)がある。『普茶料理抄』も箸立て(箸筒)に見えるが、 こちらは人物が特定されているようだが、箸立て(箸筒)の見解がない。
   

《双筆五十三次 平塚》(部分) 三代歌川豊国・歌川広重画 嘉永七(1854)年、国会図書館蔵  
旅籠の普通の食事で一汁三菜です。
    《お俊伝兵衛堀川の段》 初代歌川豊国画 国立劇場蔵
人形浄瑠璃が歌舞伎化された芝居の一場面ですが、一般的な庶民の食生活でしょう。
   
 
《見立昼夜二四時の内正午十二時》、豊原国周画、明治23(1890)年、味の素食の文化センター蔵
箸箱が描かれているが、塗り箸ではないだろうか。
   
江戸鰻飯『守貞謾稿』には「必ず引き裂き箸を添ふるなり。この箸文政以来比より三都ともに始め用ふ。」とあるから、 割箸の始まりになるようだ。(下記参照)
   
  歌川国芳 「名酒揃 志ら玉」 江戸ガラス館蔵   水を張った大鉢にたゆたう白玉が涼しげです.
流石に水の白玉は編み目お玉ですくい食すのですが、そのまま食べたとはおもえませんが判りません、多分下記のように串に刺したのではないでしょうか。
   
  歌川国芳 「春の虹蜺」 個人蔵   おいしい鰻を食べようとしている女性の、ワクワクとした心情が伝わってくるような背景の虹!
今も続く鰻の名店として東京・飯倉「野田岩」が登場しています。鰻職人の技は、江戸から受け継がれているのだとか。
箸ではなく串に刺したままの鰻を食べるなんて庶民は良いですね。
   
 月岡芳年の代表作「風俗三十二相」の「むまさう」    若い女郎屋の遊女が、カラッと揚がった海老天を箸で突き刺して、いざ一息に食べようかという決定的瞬間を描いた作品。「むまさう」というのは、言うまでもなく「うまそう」という意味です。なんとも言えない弛緩した表情。客には魅せられない。口元を拭っているのは、無意識によだれが垂れるのを防いでいるからでしょうか。
この箸も一本箸。射し箸は庶民では普通だったんですね。上流階級だけの約束事など気にしない。
   
    左は二本の箸で、とろろ汁や料理を取り分けている図で上記の女性とは異なる。またとろろ汁を箸で食べるように、匙は一般的でなくなっているのかも知れない。    
 豊原國周・見立昼夜二十四時之内正午十二時    母が持つ箸は二本である。膳に箸箱が見える。
右上のコマ絵には箸の間の薬味の包に「和田平」の名ある。今でも浅草にある老舗だ。1890(明治23)年の作だ。
さまざまな女性を一時間ごとに登場させながら、女性の二十四時間を描いた24枚の揃物である。
これは正午の十二時。こま絵に「十二時(どんと)おたべと小児にすすめ」とあり、どんぶりを描いてある。東京では正午を知らせるため明治4年から空砲を打つ習わしがあり、正午がドンとも呼ばれた。ここではそれを丼にかけてある。本絵は、膳の上に、箸箱や食器が並んでおり、母がまだはいはいをする幼児に昼食を与えている。
   
 この7点から、江戸期は、一般的な家庭、 茶屋や料理屋などでは箸を紙で包むという習慣や作法がなかったということだろう。 唯一普茶料理の時に、 作法として折った紙に箸を包んでいた。また、家庭では箸箱があり、洗って使用していたのではないか。 箸箱は、今では廃れたが、少し前までは存在した。 私も持っていた。さらに割りばしが江戸後期になって出始めたということだ。ここで初めて、箸袋趣味の会と合流する。 会の創立者が江戸期の箸袋をお持ちだったので、現存最古かもしれない。
箸袋趣味の会は1964創設で57年、箸袋は150有余年の歴史だ。それでも歴史は一歩から始まる。これから生活に必要な形に変わり生き残るかもしれないし、 全く予想もしない形になるかもしれない。趣味人としては行く末を見届けたいがかないそうもない。生ある限りは、種々色々な箸袋を蒐集し、 作品にして多少とも皆様に、「凄い」「驚いた」といわれ、「はっはっ」と笑いを提供したいと願うばかりだ。 
   
       
割箸(引裂箸)のこと
『守貞謾稿』(1853)の該当ページの写しだが、「必ず引裂箸を添ふる也。この箸文政以来ころより三都ともに始め用ふ」とあり、 鰻飯以外の食べ物屋でもこれを使うが、名のある店は使わないとある。台屋が運んでくる台の物に添えられた箸は塗箸だろうと思われる。
箸は本来は白木だったが、汚れが目立つことなどから、江戸時代になると一般に漆を塗った塗箸が使われるようになった。 現在、飲食店で使われている割れ目が入っていて、 使う人が使用前に割る割箸は、江戸時代には引裂箸と呼ばれ、文政(1818-30)頃から作られたようだ。
これが、普茶料理などの折型と合体して箸袋は誕生したのかもしれない。 この箸は一回限りの白木である。 鰻や脂っこいものはどうしても汚れて、洗って使うことはしない。だから塗箸ではない。和食文化の一部として残して伝えてほしいと思うが、 そこまでのゆとりがないのかもしれない。大量生産の安価な割箸の前には一膳におもてなしの心を込めることは、一般庶民には難しい。 特別な食通の方々の間だけでも 残して伝えたい。
       
 『狂歌躾方諸例礼集』天保7年、森屋治兵衛版の箸に関する記述より    
    箸先5分の上を濡らすな
今の3㎝である。流石に3-4㎝に現代の礼儀では改められている。2㎝が1円硬貨の直径なので、2個分になる。
自分で気を付けていないと、4㎝を守るのは難儀である。特に削り節の盛りが多い時の料理(湯豆腐・冷奴・納豆など)では醤油を掛けた後で箸に絡まり4㎝どころではない。納豆などネバネバもあり、刻み海苔の黒いのがこびり付き見苦しさを覚える。箸の持ち方を正しくしないと箸先に力が集中しないので取り分けたり、割き分けたりが難しく、箸使いと合わせて美しい食べ方に見えない。
自宅で身内では良いが、それなりの席に呼ばれたときには困る。昔、ヨーロッパにいった日本人で、箸を使い西洋料理を食す姿が美しいと評判になったと聞いたことがある。ナイフとフォークを使わなくても礼を失することなくテーブルマナーに叶った所作をできるわけである。
同じ本の別項(下左)には赤飯の食べ方が記されている。本文では「赤飯は箸で食べよ」無ければ「掌へ取りて食うべし」と記されているが、その吹き出し部分(下右)には「赤飯は三つの指にて食うことなり」と記されている。理由は書いてないが碗に盛った飯は炊き方にもよるが、赤飯はモチのような感覚の食べ物として祝い事に出されたのだろう。
   
         
   
       
       
箸袋の記述  (箸袋の範疇:箸筥・箸筒・箸箱・箸鞘・箸紙・箸巻・箸包・箸布など)      
箸袋の歴史
箸袋趣味の会の歴史に出てくる『茶屋献立指南』1696年の「八月二十六日御成立正献立」に、箸袋に入れられた箸が描かれ、 「御箸紙ニ包」「脇ニ楊枝紙ニ包」と記述がある。当時は将軍が家臣の自宅を訪れる際の「御成」の饗宴次第が事細かに示されている。 室町の頃からの習慣らしい。で、段々位が下がるにつれ饗応の中身が少なくなって、負担を軽くするという工夫がされているが、 更に江戸時代も下ると徐々に簡素になって、逆に、吉原などでは、なじみ客の箸を入れるために、客の名・定紋などを入れた箸袋を用いたようである。正月や祝い事の席では箸袋に名前を書いて膳に置く習慣は今でもあると聞く。その名残かもしれない。
   
延喜式(905年から930年頃までに書かれた。)7巻:30条:【麁妙服事】
箸筥(箸箱)にかんする記述
  「次采女十人・・・。一人執箸筥。」
宮廷では何人もの侍従が控え、天皇に使えた。中で、箸筥を用意する役割の女官がいたことが延喜式に記述されている。 
   
 正倉院御物:斑犀把紅牙撥鏤鞘刀子    紙や木簡を切ったり、文字を消す文房具。腰帯から提げる装身具。鞘口と鞘尾は8世紀流行した撥鏤の技法で表現。
→この鞘に銀箸を入れて携帯した可能性を否定できない。
   
    左の絵は下の普茶料理の膳を拡大したものである。説明書きには「袋」に類する文字は見いだせない。『茶屋献立指南』には、 「御箸紙ニ包」の文字が読めることから箸を折り紙のように包む習慣が儀礼的に普及してきたのではないだろうか。折方は流派もあり今に伝わるが、出陣や祝い事の席、正月など特別な時には名前入りを席に置いていたと聞く。文献を紐解き探しているが中々見当たらない。この図のように書かれていても説明がない。
ようやく意味が解る程度に読めるようになったが、文献を探すのは一生モノの課題になりそうである。
   
      
 
『普茶料理抄』上巻、明和9(1772)年、西村市郎右衛門、京都/西村平八 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo08/wo08_01820/index.html
本資料は早稲田大学古典籍古典籍資料からの転載
 
現代でも、普茶料理の箸袋は結構ある。左図は、300年以上前の料理本の図録である。禅宗の茶礼のあとの卓袱料理の食卓と思われる。4人が囲んだ卓には、 茶碗・取り皿・湯匙を乗せた小皿に、箸が折型に入れられ置かれている。多分折型に流派があったかは定かではない。 しかし、もてなしの心の表れであろう。ちなみに、匙は箸より前と云われるが、熱い煮物・焼物・鍋物には箸より便利だったかもしれない。箸が簡単で一般的な庶民に使われて今日に至ったのかもしれない。
   
 絵と文章に記された箸袋(箸鞘・箸筒)
「観音霊験記・西国霊場第三番 風猛山 粉河寺 粉河観音宗 千手観音」の渋川佐太夫の物語から
この物語が粉河寺縁起絵巻(国宝)からとられているのは明白だとおもうが、この文章を解読できないので、 孫引きで書くと、童子が持っているのは、箸筒(箸鞘)という説明がなされている。なぜ箸なのかは不明で、 本来小太刀(刀子)とそれを納めるさげ鞘が妥当な流れだとおもうのだが、箸と箸紙である。 この錦絵は、江戸時代(1858年頃) 全国に散在する百観音霊場の巡礼が流行した時にガイドブックの役割を果たしたようだ。
縁起絵巻の話を膨らませると、 娘が捧げた袴と下げ鞘が合体して、袋になり江戸末期の御代に刀に変えて、箸と箸紙になったのではないかと推測している。 大胆な仮説を考えると、箸墓の百襲姫の伝承と正倉院の刀子と鞘が合体して錦絵になったのではないか。(錦絵は国立国会図書館のデジタル化資料より)
 
絵(部分)は三代豊国、文章は戯作者の万亭応賀
1858年頃
   
 宇宙遊泳した箸袋
(『毛利衛、ふわっと宇宙へ』毛利衛、1992、朝日新聞社、P140図版より転載)
宇宙飛行士の毛利衛さんが宇宙飛行した際の食事風景に見られる箸袋と箸。普通の祝箸の箸袋と思われる。 1992年9月(日時は不明)初の宇宙飛行の時のスナップ写真で、箸を使って宇宙食を食べるカーティス・ブラウン操縦士 (左)と毛利さん。箸の袋を持っているのは、ロバート・ギブソン船長。
宇宙に持っていくのに、細菌など衛生面を重視したであろうに、紙でも閉じた弁当に付いている箸袋でなく、 ビニール製でもない。形状から和紙の祝箸袋と特定しても良いのではないかと推理している。 本当は本人に聞いて残っていたらコレクションしたいのだが、それこそゴミとして処理されたであろう。箸袋がうらやましい・・・